第2代会長 木村睦男元参議院議長 (運輸省自動車局長、運輸大臣等)


善に従うこと流るるが如し

  岸信介創立会長は、健康不調を感じられると、木村睦男元参議院議長が、改憲に御熱心ということから、昭和61年秋、木村睦男前参議院議長を招かれて、岸信介先生創立にかかる3団体の会長代行を委嘱され、木村睦男先生も快諾されて、会長代行として活動を始められた。そして、翌昭和62年8月7日に岸信介先生の御逝去に伴い、自動的に、岸信介先生創設の3団体の会長となられ、平成13年12月7日逝去されるまで、熱心にこの3団体を統率・指導して下さった。
 その3団体とは、創立の古い順から掲げると、まず、「自主憲法期成議員同盟」である。この団体は、昭和30年7月11日に結成されている。その経緯を挙げると、この昭和30年初頭、当時の左派社会党と右派社会党が合同するとのニュースがあった。この情報により、危機感を持ったのは、当時の自由党の緒方竹虎総裁と大野伴睦幹事長であり、また、民主党の鳩山一郎党首と三木武吉総務会長、そして岸信介幹事長であった。けだし、もし、左派社会党と右派社会党が合同すれば、保革伯仲時代、社会党に政権を取られてしまうことを憂えたからである。そこで、緒方、大野、三木、岸の四者が秘かに会談を持ち、左右社会党が合同する前に、保守合同を実現することを申し合わせたのである。
 初めは、自由党と民主党の政策協定を考えたが、両党は長年、血で血を洗う政争を繰り返してきたので、早急には行かないと判断し、両党の中を見渡したところ、両党の中に、憲法改正の議員会派があって、これには大した差はないことが分かり、まず、この両党の改憲議員会派が合同したのが7月11日で、名称を「自主憲法期成議員同盟」とした。そして、この議員同盟メンバーが、協力し合い、4ヶ月後の昭和30年11月15日、自由民主党が結成されたのである。したがって、自由民主党は「自主憲法制定」を立党の精神として掲げ、その実現に働いた「自主憲法期成議員同盟」のメンバーは大層誇りとした。この議員同盟の会長は数代を経て、岸信介元総理が会長を務めておられた。
 いま一つの団体は、時はなお保革伯仲時代で、憲法改正には第九十六条で衆参各議院の総議員の三分の二以上の多数を要するため、「自主憲法制定」を立党の精神としながら、自民党政権はなかなか改憲を実現できず、そこで、世論を起こすために、民間の協力を得る必要を感じ、昭和44年に80数団体の参加を得て結成されたのが、「自主憲法制定国民会議」である。そして、岸信介元総理は、その初代会長に就任したのである。  3つ目の団体は、昭和56年に岸信介元総理会長で創設された「時代を刷新する会」である。これは、主として、学者・評論家・技術者など専門家の集まりとして、清原が岸先生にお願いして創っていただいた。理由は、やはり岸先生創設の財団(シンクタンク)が政府宛要請書を起案するにも専門家の参加が必要であるし、また「自主憲法」においても、憲法には、政治・経済・教育・福祉・安全保障等々、社会のあらゆる分野を検討する必要があるので、専門家の参加が必要だからである。この団体も木村睦男元参議院議長に会長をお願い申し上げた。
 上記の色紙は「従善如水」。「善に従うこと水の如し」と訓み下す。

小冊子表紙

 木村睦男会長は、岸信介先生から後継者の指名を受けたことを大層誇りとされ、憲法改正には大層熱心で、「自主憲法研究会」には必ず出席され、昭和62年にはまず左掲上の『憲法改正に対する私の考え』(クリックすると中を御覧いただけます)なる小冊子を発刊された。また、平成8年には、下掲の『平成の逐条新憲法論』(254頁)を上梓され、同年5月3日の国民大会で、発表された。この書は、参議院議長を務められた御体験から、衆参を同時解消しての一院制を提唱。注目を集めた。平成13年12月7日御逝去、88歳。亡くなるまで当団体会長。

『平成の逐条新憲法論』

『平成の逐条新憲法論』
木村睦男著
254頁  平成8年5月3日発行  善本社
この改正案は、木村睦男当団体会長が、参議院議長経験者でありながら、衆参両院を同時に廃止し、改めて一院制を提唱した点で、世間の注目を浴びた。この木村睦男先生の起草には、竹花先生も清原も協力した。

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