国民会議はなぜ設立されたか


A、前提となる歴史的経過の概観

 当「自主憲法制定国民会議」は、前掲のように1969年(昭和44年)に、岸信介元総理を会長として設立された民間の改憲運動団体である。その設立には、実質的理由もあるが(それは後述)、名目上の理由は、遠く昭和30年7月11日に設立されて国会内で活動していた「自主憲法期成議員同盟」を支援するべく、民間の有志・団体によって設立されたもの、とされている。
 それはなぜか。それを正確に知るためには、遠因にまで、遡らなければならない。けだし、今日では、第2次世界大戦で日本が敗れ、アメリカを初めとする連合国軍の占領下におかれていたことの認識がない世代も増えてきているからである。
 そこで、まず、大雑把に記しておくと、昭和20年8月15日に昭和天皇の終戦の御詔勅により日本は降伏し、9月2日、東京湾に停泊するミズーリ号上にて日本の降伏文書調印式があり、ダグラス・マッカーサー連合国軍総司令官の統治下に入ったあと、総司令部より、間接統治下の日本政府に対し、大日本帝国憲法を改正して、新しい憲法をつくるよう指示があり、結局、総司令部起案を中心とする占領下・間接統治下「日本国憲法」が施行(昭和22年5月3日)された。その占領下でも、日本内に、独立を獲得した暁には、日本人の手による憲法を作ろう(自主憲法制定)という声はあったが、占領下ではいかんともなしがたかった。
 そして、昭和26年のサンフランシスコ講和条約への調印によって、翌昭和27年4月28日、日本は独立国家として国際社会入りを認められた。そこで、占領下で潜在化していた自主憲法制定の運動は、顕在化することが可能となった。しかし、憲法改正の合法的改正のためには、その第96条〔改正手続条項〕で、衆参各議院の総議員の3分の2以上による国会の発議を得た上で、さらに国民投票に掛け、その過半数の承認を得ることが必要である。しかしながら、当時の政情は、社会党や共産党など野党勢力も強く、いわゆる保革伯仲時代が続き、上記の改正条件を充たすことが出来ず、憲法の1ヵ条の改正もできないまま、ずるずると来てしまった。
 近年、特に、第2次安倍晋三政権以降、自民党はじめ与党は、衆議院でも3分の2、参議院でも3分の2以上を占めて、国会での発議要件は充たしている。そこで次に、国民投票での過半数が得られるかが、大きな課題となっている。
 当団体としては、いまの日本国憲法は、占領下の非独立国・属国憲法の形式であることに加えて、憲法をはじめ法制なるものは、制定された時点で静止している。それに対して、時代は日進月歩の進展であり、IT時代の今日では分進秒歩とさえ言われている。いまの「日本国憲法」は施行された日、すなわち昭和22年5月3日で静止している。それから70年間、一度も改正されないので、いまの憲法の内容と、時代の変化とのギャップが大きくなっており、現行「日本国憲法」は、解釈で補って執行するのも限界になりつつある、ことを御理解いただきたい。
 日本と同じ敗戦国で、同じように占領下で、そのヒットラー独裁憲法を代えさせられたドイツは、講和条約に調印し独立してから、その「ドイツ連邦共和国基本法」をどんどん改正して、今日までに60回以上も改正し、法と現実とのギャップを埋めていることを、日本国民も見習うべきである。
 上記の概観に加え、さらに歴史的経過を学びたい方は、下記についても御一読いただきたい。

B、敗戦後、現行憲法制定にいたる時代背景!

1)現行憲法成立に至る時代背景を知るには、1945年(昭和20年)8月15日まで遡る。この日、わが国は、昭和天皇の終戦の詔勅により、連合国に降伏を申入れた。そして9月2日、東京湾上の米艦ミズーリ号上にて、降伏文書に調印し、日本は、連合国軍総司令部(GHQ)による占領下に入り、独立主権国家としての主権は停止された。

2)同年10月4日、GHQを表敬訪問した近衛文麿公爵は、マッカーサー連合国軍総司令官から強いロ調で、自由主義的要素を十分取り入れた憲法改正を行うよう指示があり、近衛を驚かせた。次いで、10月8日、近衛は、マッカーサーの意向を確かめるため、高木八尺教授ほか2名を伴い、再びGHQを訪れたが、アチソン外交顧問から9項目にわたる憲法改正方針を示された。こうした占領軍の考えを知った皇族総理大臣東久邇稔彦殿下は、もはや自分にはできない、と総理を辞任した。

3)10月9日、かつて駐米大使も務めた幣原喜重郎元外務大臣が総理大臣に就任。 10月11日、GHQにマッカーサー総司令官を訪ねた幣原首相は、そこで5項目の憲法改正方針を文書朗読の形で要求され、「大日本帝国憲法」に代わる新しい憲法をつくるほかない、と決断した。

4)そこで、占領下の日本政府は近衛文麿公爵を内大臣府御用掛に任命、また憲法学者の佐々木惣一博士も御用掛に任命し帝国憲法改正の検討に入った。さらに幣原首相は、松本烝治国務相を主任とし、同10月25日に同国務相を委員長とする「憲法問題調査委員会」を設置する。翌11月18日、前記佐々木惣一博士は『帝国憲法改正の必要』と題する詳細な改憲案を発表。次いで同月22日に近衛文麿公爵が『帝国憲法改正要綱』(近衛案)を天皇に報告。同24日に佐々木惣一博士が前記案を天皇陛下に御進講。 12月16日戦犯指名された近衛公服毒自殺。

5)翌昭和21年1月9日、松本烝治憲法問題調査委員長が憲法改正私案を発表。同1月30日、極東諮問委員会代表と会見したマッカーサー連合国軍総司令官は「憲法改正については、出来上がった文書は、日本人の作成だと、日本人に思わせる方策をとるべきである。」と語る。

6)昭和21年1月24日、GHQにマッカーサー元帥を訪問し、正午から2時間半にわたって憲法改正問題について会談を行った幣原喜重郎総理大臣は、占領軍側は、これまでの日本側から出された憲法改正案をすべて否定し、戦争放棄の明記を示唆するものであったという。

C、連合国軍総司令部(GHQ)による憲法改正案の提示と日本側の採決経緯

l)昭和21年2月3日、連合国軍総司令官・マッカーサー元帥は、GHQ民政局に、(1)天皇は国家元首(ザ・ヘッド・オブ・ザ・ステイト)の地位にある、(2)戦争及び軍隊を放棄する、(3)封建制度を廃止する、という三原則に基づく日本憲法草案の作成を指示する。

2)翌2月4日には、GHQ内に[日本国憲法改正草案委員会]が設置され、ホイットニー准将指揮の下に、前文担当のほか、運営委員会、立法委員会、行政委員会、司法委員会、財政委員会の委員が任命され、早速、日本国憲法の改正案の作成に取りかかり、GHQは、2月10日に、日本国憲法改正案を完了させた。すなわち、「日本国憲法」の原案は1週間ほどで出来ている。

3)2月13日、GHQ民政局長ホイットニー准将は、吉田茂外相、松本烝治憲法改正担当国務相を呼び、松本烝治国務相起案の松本憲法改正私案を否定するとともに、11章92条からなるGHQ憲法改正草案を手渡して、この案を持ち帰り日本側が採用することを求め、また、お望みなら、この案をマッカーサー元帥の完全なる指示を受けた案として、日本国民に示してもよいと言い、さらに、日本側がもしこの憲法改正草案を採用しない場合は、天皇の身体の保障をなすこと能わず、と述べたという。

4)さらに、2月18日、GHQを訪問した白洲次郎外務省終戦連絡事務局次長に対して、ホイットニー准将は、このGHQ改憲草案を、日本側が48時間内に日本国民に提示することを約さない時は、マッカーサー元帥が直接、日本国民にこの改憲案を提示するだろう、としてこのGHQ改憲草案の受入れを迫っている。

5)上記報告を受け、日本側は、2月22日の閣議において、GHQ改憲草案の受入れを決定。ただし、日本側は、(1)前文の削除、(2)皇室典範改正発議権を天皇に留保する、(3)一院制のGHQ案に対し、二院制復帰、(4)憲法改正規定の削除、の4項目をGHQへ懇請する。しかし、これは、GHQが拒否。さらに折衝の結果、(3)の衆参二院制の復活だけはGHQの方が譲った。

6)3月5日、このGHQ憲法改正案について、GHQと占領下日本政府との合意が成立。翌6日、政府は、「(1)主権在民、(2)天皇象徴、(3)戦争放棄、を柱とする憲法改正案」を国民へ提示。主要戦勝国で構成された極東委員会も、5月13日、(1)審議に十分な時間をとった、(2)明治憲法との完全な法的継続性が認められる、(3)日本国民の自由な意志表明である、ことを認めて、この改正憲法案を承認した。

7)5月22日に成立した吉田茂第一次内閣で、8月24日、衆議院において「日本国憲法改正案」を修正可決。10月7日、貴族院にて修正案を可決する。10月29日、枢密院において日本国憲法改正案を可決し、同11月3日に「日本国憲法」公布。翌昭和22年5月3日に、「日本国憲法」が施行(現実に効力を持つ)された。(以上に関する詳細は清原淳平著『憲法改正入門』(1992年〔平成2年〕2月、ブレーン出版刊の年表参照。なお、その後の出版不況によりこのプレーン出版㈱が倒産したので、この図書の内容を、平成27年12月25日刊、善本社発行、清原淳平著『集団的自衛権・安全保障法制』の後半に、全文転載してあるので、御参照いただきたい。)

8)清原は、以前にマッカーサー将軍について調べて、著書に書いているが、日本人の中には、戦勝国を代表して連合国軍総司令官として占領下の日本を統治したマッカーサー将軍について、すべてを悪と評価するものもいるが、マッカーサーは、天皇制を残し、占領下に日本政府の存在を許す間接統治方式を採るなど、軍人としてばかりではなく、政治家としても優れた人物であった。
 ただ、「大日本帝国憲法」を改正して「日本国憲法」にし、特にその第9条で、陸海空軍不保持、武力の不行使、交戦権否認、を規定したのはけしからんという人もいるが、戦勝国側の占領政策としては当然のことをしたまでであって、そうした占領下の属国憲法をいつまで経っても、「自分の国は、自分で守る」独立主権国家の憲法にしない日本国民の方に問題があることを理解していただきたい。

9)また、連合国軍総司令部(GHQ)がその「日本国憲法」をつくった時は、長い戦争も連合国軍の圧倒的勝利で終わり、世界の恒久平和を標榜する国際連合憲章が制定されて、国際連合の組織が出来た理想世界到来に燃える時期であったので、その理想が、「日本国憲法」の前文にも謳われ、上記のような第9条の3要件も掲げられたわけであるが、その後、間もなく、戦勝国・連合国の主要2大国アメリカとソビエトとの問で、主導権を争ういわゆる冷戦が始まり、さらに、昭和25年に、北朝鮮軍が韓国に侵入し、これに米軍と中国軍が参戦する「朝鮮戦争」が勃発した。
 そのため、マッカーサー連合国軍総司令官は、急遽、日本駐留の米軍をはじめとする連合国軍を朝鮮半島に出兵させた。そのため日本の防備が手薄になったので、マッカーサーは、占領下の日本政府へ、警察予備隊の創立を命じている。この朝鮮戦争の最中、マッカーサー将軍は、アメリカのトルーマン大統領に原子爆弾の使用を求めたこともあり、トルーマンに連合国軍総司令官の地位を解任され、本国に帰国する羽目になった。この警察予備隊が、のち保安隊となり、自衛隊へと発展していったわけである。その後、日本の要人が、アメリカに帰ったマッカーサーの自宅を表敬訪問すると、マッカーサーは、日本は、まだ、あの日本国憲法、特にあの第9条を改正しないのか、と驚いていたという話は、何度も伝えられた逸話である。

D、独立回復後の日本の国情

1)さて、朝鮮戦争による特需で、急速に経済力も発展してきた日本に対し、アメリカは、世界が米ソ2大陣営に分かれている中で、日本を独立させ自国陣営に引き入れるべく、昭和26年、サンフランシスコにおいて、対日講和条約の調印式を催してくれた。これには、当時の吉田茂総理が日本側全権として調印し、そのほか、日本国防衛のための「日米安全保障条約」にも調印している。翌昭和27年4月28日、この調印が効力を発して、日本は、独立主権国家として、国際社会への復帰が認められた。

 これにより、占領下で潜在化していた「独立した暁には、日本人の手による日本人のための憲法をつくろう」という“自主憲法制定”運動も、独立を許されたことによって、顕在化した。しかし、憲法改正するには、日本国憲法第96条〔憲法改正手続要件〕で衆参各議院の総議員の3分の2以上の賛成で改憲の発議をし、それを国民投票にかけ過半数の賛成を得て、発効するという条件を充たす必要があるが、当時の政治状況は、社会党や共産党など憲法改正に反対する勢力が強く、いわゆる「保革伯仲時代」で、改正条件を充たすには、ほど遠かった。

2)次に、当時の日本政府が取り組んだことは何か。それは、国際連合(国連)に加入することである。けだし、国連に加盟できて初めて国際社会の一員といえるからである。そこで、当時の第3次吉田茂内閣は、国連加盟申請提出について、衆議院・参議院にその趣旨説明をして、昭和27年6月4日に国会の承認を得て、6月23日、国連に正式に加盟申請書を提出した。
 しかし、国連側が、日本の加盟を認めたのは、それから4年後である。なぜか、国連側としては、その参加資格は基本的に「自分の国は、自分で守る」独立主権国家が原則であるから、日本が、占領下の属国憲法の象徴たる第9条 (1)陸海空軍の不保持、(2)武力の不行使、(3)(独立国には認められる)交戦権否認の規定を改正することを期待したと思われる。もちろん、日本側も、こうした「自分の国は自分で守る」体制にない憲法では、国連が加入を認めてくれないのではないかとの危惧があったので、なんとか早く憲法改正できる体制を作ろう、と努力した。

3)すなわち、吉田茂総理は、加盟申請前の昭和27年1月31日の衆議院予算委員会において「10月には、警察予備隊に代えて、防衛隊を新設する」と述べている。さらに、同3月6日の参議院予算委員会において、吉田総理は「自衛のための戦力は違憲にあらず」と答弁。上記の6月23日国連への加盟申請書提出後の8月4日には、吉田総理は当時の保安庁に出向き、「新国軍の土台たれ」と訓示している。

4)他方、岸信介先生(以下敬称略)はどうしていたか? 岸信介は、連合国による占領下での東京裁判で不起訴・釈放されていたが、公職につくことは禁じられていた(公職追放)。しかし、サンフランシスコ講和条約が発効した昭和27年4月28日、同時に公職追放も解除された。そして10日ほど前の4月19日に結成されていた「日本再建連盟」会長に、この日就任している。

5)そして、同年10月1日の衆議院総選挙に、岸信介会長は立候補しなかったが、同志16名が出馬したが、武知勇記ひとりが当選した。岸信介は、翌昭和28年2月7日に、世界の現状把握のため外遊に出た。するとたまたま西独滞在中の3月10日に、日本では、いわゆる吉田首相のバカヤロー発言に端を発する衆議院解散があった。その時、岸信介は知らなかったが、弟の佐藤栄作自由党幹事長が、兄信介の自由党入党手続をとり、「急遽帰国」の電報を打った。やむなく帰国した岸信介は、4月10日の総選挙に立候補し、当選して議席を得た。
 当選して、吉田茂党首に挨拶に行くと、吉田さんが「岸君、君は党の憲法調査会長をやってくれ。憲法は当然改正しなければならぬ。おおいにやってもらいたい」と言われたという。上記の経過からも、世間でいう「吉田茂は憲法改正反対論者だ」という説は、誤りである。
6)上記バカヤロー解散で、吉田自由党は議席を減らしたが、なお過半数を維持し政権を担ったが、内部は鳩山一郎に政権を返すべきだとする派などでガタガタし、それに加えていわゆる造船疑獄・犬養健法相の指揮権発動などの事件で、吉田総理も辞任。政界再編制へと動いていく。 昭和29年も政界激動期で、自由党が分裂して、日本民主党が出来、岸信介は幹事長となる。
(未完)

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