岸信介会長の路線による改正


A、清原が、岸信介会長から、当国民会議の事務局長を命ぜられるにいたる経緯

 清原が、岸信介会長から、憲法改正の路線についてうかがったのは昭和54年春であった。
 いま、その前提として、当時の岸信介元総理の身辺事情を記すと、岸信介先生はなお現職国会議員であり、国会内の「自主憲法期成議員同盟」には熱心に参加されたが、昭和49年に周囲の人々が岸信介元総理のために創立した「財団法人 協和協会」、そして上述の「自主憲法制定国民会議」はそれぞれ会長ではあったが、当時なお現職衆議院議員であり、出来ればいま一度総理に返り咲いて憲法改正を実現するお気持ちもあったので、この二団体には、しぜん精力を傾注できないでおられた、と思う。
 しかし、岸信介元総理は、昭和53年7月に、翌年の総選挙には出ないと宣言されてからは、「(財)協和協会」とともに「新しい憲法をつくる」運動に余生をを捧げる決意をされ、そのための実務執行者を捜しておられると聞き、岸信介内閣時代に閣僚を務めた何人かの方々の推薦により、昭和53年11月、清原淳平が呼び出され、日石本館三階の岸事務所で御面接の結果、その日に、清原は「(財)協和協会」の常務理事兼事務局長を委嘱された。
 それから清原は、政・財・官・学・民の指導者クラスを歴訪してまわり、年末には百数十名の入会者を得たので、翌年の昭和54年1月16日に、約80余名の出席者を得て、「財団法人協和協会」本格活動へ向けての「新年顔合わせ会」の開催に成功する。そして、この発会式の日、向後、毎月2回、月例会を開始することに決まる。
 次の2月6日の月例会のあとであったと記憶するが、岸信介会長は清原に声をかけ、「私は、『自主憲法期成議員同盟』と『自主憲法制定国民会議』の会長もしているが、君に、この両団体の事務局長をしてもらいたい」とのお言葉。清原は驚いて、「私は現在の『(財)協和協会』の常務理事兼事務局長の仕事で手一杯です」と御辞退したが、岸信介会長は「君なら出来るよ。ぜひやってくれ。今年の5月3日の『第10回 自主憲法制定国民大会』の執行も頼む」とのお言葉。お引き受けせざるを得なかった。
 すると、岸信介先生は、「私は、自民党総合政策研究所の会長もしているが、憲法改正問題・自主憲法制定は、自民党創設の際の立党の精神である。その自民党総合政策研究所の事務所が、衆議院第一議員会館の一階にあるので、君は、その事務所を使ってくれ」とのお言葉。そして、そのあと、同席していた自主憲法制定国民会議理事長の植竹春彦元参議院議員(岸内閣の郵政大臣)がその室へ案内して下さった。
 清原は、先程の岸信介先生のお言葉、5月3日の『第10回 自主憲法制定国民大会の事務執行もしてくれ』とのお言葉が気になった。いま2月の初めで、5月3日というと3ヵ月もないので、植竹春彦理事長とそこにいた事務員に頼んで、これまでの国民大会の参加者名簿を出してもらった。見ると、ここ数年の国民大会は、約200名も入らない明治神宮の参集殿で開催していることが分かり、本当に驚いた。

B、「現行憲法無効・明治憲法復元」か「現行憲法有効・合法的合理的改憲」か?

 そこで、次に岸信介会長にお目にかかった月例会(2月20日)の際、私は「岸先生、私は、これまで、憲法改正は必要とは考えていましたが、これまで、そうした運動に参加したことがありませんでした。先日、自民党総合研究所に行き、事務員からも説明を聞いて驚きました。と申しますのは、確か7~8年前からでしょうか? 新聞などで、毎年5月3日に、岸先生が憲法大会を主催され、それも武道館などで1万人大会を開催されているとの認識でいたのですが、先日、事務員から話を聞いたところ、近年5月3日は、僅か200人以下しか入らない明治神宮の参集殿での集会となっているとのことで、なぜ、そういう事態になったのか理解に苦しんでおります。どういう理由なのか、うかがわせていただけないでしょうか? とおたずねした。
 すると、岸信介会長のお答の要旨は、昭和44年に、民間団体有志から、昭和30年以降、国会内で結成され活動している自主憲法期成議員同盟を、民間から支えてゆくべく自主憲法制定国民会議を結成することになったので、その会長に就任いただきたい。また、毎年5月3日には、「自主憲法制定国民大会」を開催したいので、その国民大会の方も会長となっていただきたい、との要請があった。私は、自主憲法期成議員同盟に、当初から熱心に参加していたので、それを支援する国民会議が出来ることはありがたいことだと思い、要請を入れて、会長となった。
 「自主憲法制定国民大会」も、昭和44年5月3日に第1回が開催され、特に第2回目以降は複数の大手宗教団体も参加し、あの武道館が満杯になるほどの盛会裡に開催されてきた。ところが、それから4~5年経ってから、宗教団体でも特に大手の生長の家の谷口雅春総裁から面談したい、との申入れがあったのでお会いした。
 すると、谷口雅春総裁から「岸先生は、毎年の国民大会でよい会長挨拶をして下さるが、私として不満なのは、私は戦後、現行憲法無効・明治憲法復元を信念としてきているが、国民大会では一向に、現行憲法無効・明治憲法復元をおっしゃってくださらない。次の国民大会では、ぜひ現行憲法無効・明治憲法復元を明言していただきたい、という。
 そこで、私(岸先生)は応えたんだよ。谷口さん、それは、できませんよ。(谷口総裁)なぜですか。(岸先生)谷口さんの心情はよく分かるが、現行憲法無効・明治憲法復元は、日本が、独立して10年以内ぐらいなら可能性があったが、もう20年も経っている。それをしたら、日本は大混乱になりますよ。(谷口)どうして大混乱になるのですか? (岸先生)この20年間、日本の行政、国会、裁判所は、今の憲法に基づいて運営されてきているが、10年内ならば、かなり混乱はあっても、なんとかなった。しかし、すでに20年も経ってから、現行憲法無効・明治憲法復元となると、この20年間の国会の法律、政府の行政措置、裁判所の判決も、その根底となる憲法が無効なのだから、法律上、改めて再度審査をしてくれという再審請求を提起されても仕方がない。そうすると、日本社会は大混乱となりますよ、と谷口さんに説明したのだが、結局、分かっていただけなかったようで、翌年の5月3日の武道館は、生長の家の青年集会だかが開催され、我々の方には、なんら通知がなかった、というわけだ。そこで、その翌年から、われわれは、独自で、明治神宮の参集殿で大会をやっているわけだよ。
 (岸会長)ところで君(清原)は、再審請求ってこと分かるかね。(清原)私も六法〔憲法・刑法・民法・商法・刑事訴訟法・民事訴訟法〕は一通り勉強しましたので分かります。法体系には、上位法・下位法の原則、すなわち、下位の法は上位の法を侵すことはできない。下位の法は上位の法の範囲内で作られなければならない。したがって、いまの日本国憲法が無効となれは、その下の法律・行政措置・裁判はすべて、法的根拠を失ってしまいますから、もう一度、審査をやり直してほしいという再審請求を提起されてもやむをえない。この上位法・下位法の原則は、法律の基礎として、法学原論などで最初に習うことです、と申し上げた。
 すると、岸信介先生はニッコリされて、その通りだ。20年も経って、それも一度の改正もないいまになって、現行憲法無効となれば、いたるところで再審請求が出て、国内は混乱してしまう。そして、現行憲法無効・明治憲法復元だということになると、それは、もはや革命と言ってよい。したがって、いまの私(岸先生)は、現行憲法を有効とし、その上での、合法的・合理的に、改正するほかない、と考えている。君(清原)が分かってくれているなら安心だ。私の考えに従って、君にやってほしいと言われた。清原も、岸先生の路線を遵守いたしますとお誓いした。
 清原は、こうして、以来、40年近く、毎月の自主憲法研究会(=新しい憲法をつくる研究会)を継続して沢山の憲法改正案を起案・作成してきており、また、毎年5月3日開催の「自主憲法制定国民大会(=新しい憲法をつくる国民大会)」も、岸信介元総理から最初に命ぜられた昭和54年の「第10回国民大会」から、本年の第48回国民大会まで、ほぼ40年にわたって、継続・執行してきている次第である。

C、「改憲派」内の2大潮流へ認識を!

 上掲のBに述べた岸信介元総理の発言から分かるように、憲法改正派・改憲派には、「現行憲法無効・明治憲法復元」派と、それを否定した「現行憲法を有効とした上で、合法的・合理的な改憲を考える」派との、2大潮流がある。
 なお、戦後には、現行憲法はアメリカが一方的に押しつけたものだから、現行憲法は全く無視し、大日本帝国憲法(以下、俗称・明治憲法とする)はいまも生きているとして、それに従うとする一部の極右思想者や旧軍関係者もあったが、それは、余りにも法制度社会からは外れるが、当時は本気でそう考えている人たちもいた。しかし、そうした考えの人々も、次第に年代が経るに伴い、少なくなっているので、この考えは「現行憲法無効・明治憲法復元」派の中に入れてよいと思う。
 そこで、国民の皆様にお願いがある。すなわち、国民は一般に、改憲派というと、護憲派に対して、「現行憲法の改正を唱える」改憲派は一つだと思っている人が多いが、そうではなく、改憲派の中には、「現行憲法無効・明治憲法復元」派と、当団体のように「現行憲法を有効とした上で、合法的・合理的な改憲を考える」派との、基本的考え・手段方法も異なる2派がある、ことをぜひ御認識いただきたい。
 より詳しく言えば、「現行憲法無効・明治憲法復元」派の中にも、現行憲法について時勢に応じて当面の改正を認めてもよいが、終極的には現行憲法を無効として明治憲法に復活するとの考えをとる人と、当面の改正を認めると明治憲法への復元が出来なくなる恐れがあるから、当面の改正も許さず、いつの日か、国会決議などで、一挙に明治憲法へ復元する。そして、改正するとすれば、その明治憲法を復元してから改正する、あるいは、明治憲法に復元して一夜にして、新しい憲法にすり替える、との考え方がある。いずれにせよ、そうした明治憲法へ復元してからという考え方は、「明治憲法復元原理主義」と言ってよいだろう。岸信介会長は、そうした考えに対して、それは「改正」ではなく、「革命」に他ならないもので、大体、そうしたやり方に、国民がついてくるかネ、と言われていた。

D、「現行憲法無効・明治憲法復元」派の説得?

 こうして、清原淳平は、昭和54年2月に、岸信介会長から、「自主憲法制定国民会議(のちに一新しい憲法をつくる国民会議)」の実務執行を命ぜられ、また、同年5月3日の「第10回自主憲法制定国民大会」も、事情がよく認識出来ないまま、ともかく終了することはした。その反省に立ち、清原は、岸信介会長より、当「自主憲」独自の改憲案づくりという課題もいただいたので、憲法学者有志の協力を受けて、「自主憲法研究会」づくりにもとりかかった。
 また、清原は、翌年以降も「自主憲法制定国民大会」を執行するとなると、どうしたらよいのか、以前に参加していただいていた宗教団体にお願いして戻っていただくのが、一番の早道だと考えたので、岸信介会長に、御相談した。(清原)生長の家はじめ、離れていった宗教団体、旧軍関係団体に、岸会長の考え方を説いてまわり、戻っていただこうと思いますが、とお諮りした。
 すると、岸信介会長は、それは、せんでよいよ。私も、谷口さん(雅春生長の家総裁)と話したが、宗教的信念は、政治イデオロギーと同様、いや、それ以上に、変えることはむずかしい。君が説得に行っても、かえって対立を生むだけと思う。いずれ、時勢が変わり、宗教家本人が気がつく時を待つほかないだろう。なお、君は、彼らと争うことはしないようにしてくれ、との御指示があった。清原は、そのお言葉を、改憲運動は広く世論を啓発して行かねば出来ない。すなわち、現行憲法第96条〔改正手続要項〕の“衆参各議院の総議員の3分の2以上の賛成で、国会が発議し、国民の過半数の賛成を必要とする”趣旨から、いたずらに敵をつくるな、といわれているものと理解し、肝に命じた。

E、当団体と「日本会議」との違い

 さて、平成28年3月ごろ以降、「日本会議」に関する書籍がいろいろと出版されて、新聞・雑誌社などから、「日本会議とはどういう関係か?」「5月3日に国民大会を、長い年月、別々に開催しているのはなぜか?」とか、いろいろ問い合わせがあった。しかし、それに対しては、なにか話をしても、面白おかしく書かれるだけと思うので、「日本会議さんとは、全く別に活動している団体です」と、取材を断ってきた。ただ、その後、今でも同様な取材要望が来るので、清原が体験した過去の経過だけを、ここに、記しておくこととする。
 前項で記したように、清原は、岸信介会長から「現行憲法無効・明治憲法復元」を唱える当時の『生長の家』を説得することはやめておくように言われ、断念した。しかし、これからもずっと5月3日の国民大会を継続するよう委託された清原は、その他の団体は、なんとか参加してもらいたいと考え、いろいろとお願いに駆け回った。そして、いくつかの団体は、では、岸先生主催の「憲法大会」にも少し動員しましょう、と応じてくれる団体もあった。
 その中で、椛島有三氏を中心とする「日本青年協議会」については、岸信介会長から、その団体名が出ているわけではなかったし、戦前・戦中からの団体は、発想の切替えがむずかしくとも、可塑性に富む青年の団体であれば、大いに期待できるのではないかと考え、当時、「日本青年協議会」の所在地を訪ねた。それは、確か原宿あたりだったと思う。
 そこは、和室であったように記憶している。中に入ると、4~5人の青年がおり、それら青年はどうやら、そこで共同生活をしている様子だった。清原の方で、岸信介会長主催の国民大会へ協力いただきたい、とのお願いをしたあと、椛島氏の方から長崎大学正常化闘争について知っているかとの質問があった。清原は、それまでそうした世界にいなかったので、知らないと答えると、椛島氏ほかから、かなり長く、長崎大学正常化闘争で左翼学生に勝利した経過説明があった。
 清原は、その話を聞いて、長崎で左翼学生と過酷な闘争を成し遂げたグループならしっかりした青年たちだと思った。また、その折、彼らが生長の家の青年部隊だという説明もなかったので、清原は、こうした青年運動家グループの協力が得られればと思い、ぜひ協力していただきたい、とお願いし、かれらも、国民大会に人員を割いて協力する旨、約束してくれた。
 ところが、数年して、清原の耳に、日本青年協議会は、生長の家の青年部隊で、谷口雅春創立総裁の教えを最もよく信奉しているグループであること、さらに、困ったことに、日本青年協議会が「反憲学運」なる組織を主催している。つまり、現行日本国憲法を認めない考えを基本的に持って活動しているとの情報が入り、当方の「自主憲」団体の幹部間で、そうなると岸信介会長の路線に全く反する、どう対処するか、が問題になった。特に、昭和57年5月3日開催の「第13回 自主憲法制定国民大会」では、日本青年協議会から青年代表が出て「推進の言葉」を述べてもらっているので、清原は困惑した。いままで、ともかく協力してくれていたのを断るとなるとカドが立つ、路線の説得をしても、彼らは宗数的信念なので納得しまい、敵にはしたくない、と悩んだ。
 ところが、丁度、その時、日本青年協議会の椛島有三氏の方から話があるという。聞いてみると、日本青年協議会とそのグループは、新たに、「現行憲法無効・明治憲法復元」を標榜する『日本を守る会』を結成した。そのため、「自主憲」の次期国民大会からは、参加・協力できないとのこと、清原は内心ホッとした。そして、それはやむを得ませんね、お互いに頑張りましょう、ということで円満に分かれた。  したがって、以降、国民大会は、同じ5月3日でも、別々に大会を催してきている。つまり、当団体としては、昭和58年5月3日の「第14回 自主憲法制定国民大会」以降は、日本青年協議会とは、全く別個に国民大会を開いて、今日にいたっている次第である。
 そして、椛島氏たちの作った『日本を守る会』は、「現行憲法無効・明治憲法復元」を標榜し随分頑張ったようだが、それほど勢力伸長にいたらず、やがて、同類の『日本を守る国民会議』と合体し、さらに『日本会議』と名称を改めた。しかし、そのころから、「現行憲法無効・明治憲法復元」は、表だっては言わなくなっている。
 彼らが「日本会議」を名乗ったころから、その参加団体から、いや、議員からも、「なぜ、参加しない」「大会も、別にやらないで、一緒にやれ」等々、かなりの圧力があった。しかし、私は、丁重にお断りしてきた。また、下はともかく、トップの椛島氏が分かっているから、これ以上の妨害はないだろうと考えている。何年かに一度ぐらい、建物内の廊下などで偶然会っても、彼とは、「お互いに頑張りましょう」ぐらいで、にこやかに挨拶して分かれている。
 なお、近年、『日本会議』を批判する本では、『日本会議』の中心は実は『日本青年協議会』であるとする点は正しいが、『日本青年協議会』の椛島氏たちを、学生運動に毛が生えた程度の認識の活動家と評するが、その点、清原は反対で、極めて優れた戦略家・戦術家たちである、と考える。
 けだし、彼らは青年時代、長崎大学での左翼との闘争で、左の闘争家たちの戦術も学び取り入れ、また、右翼の闘士たちの戦術も学び取り入れているし、さらに、彼らは、純粋であるが故に、『生長の家』の教祖・谷口雅春総裁の「現行憲法無効・明治憲法復元」の教えが絶対であるとして信じている。(一般に、宗教においては、信者は、教祖様の言うことが絶対で、教祖の言葉は、天皇、総理の発言より上だというほどであることは、体験している)
 ところが、生長の家では、谷口雅春総裁の没後、2代目~3代目により、その教義・方法論が修正されてしまったので、教祖の教義・方法論を信奉する純粋な彼らは困惑したが、初代教祖信奉の「原理主義」は捨てられない。そうした体験から、彼らは、もはや、生長の家を中心に押し立てて活動することができないので、そこで自分たちは、かげに隠れて、他の宗教団体等を表に立てて戦う、という戦略を身につけたと思う。また、宗教団体の布教方法・信者獲得・洗脳(?)戦術をも、取り入れていると思う。
 つまり、『日本青年協議会』は、参謀本部であり、大本営であるが、その所在を隠して、他の宗教団体や政治団体に、あたかもかれらが中心であるかのように思い込ませ、裏から指揮・統率してきたといえるのではないか。そういう点でも、かれらは、優秀な戦略・戦術家である。
 そして、清原が昭和54~55年代に、日本青年協議会の室を訪問した時に、共同生活していた若き面々は、椛島氏はじめ一部の幹部は陰の参謀本部・大本営で指揮を執るが、同室していた一人は国会議員になり、また一人は憲法学者になり、あるいは一人は政策立案家になるなどして、いまでは、政治の中枢を押えているように見える。その陰の結束、役割分担は見事である。それは、著述家らがいう「学生運動に毛の生えた程度の活動家グループ」などといった評価どころではない、と思う。
 当時の岸信介会長はじめ執行部は、当時、三島由紀夫事件が頭にあった。三島由紀夫の心情は分からぬではないが、その行動は革命であり、許されるべきことではない。岸信介会長も、「現行憲法無効・明治憲法復元」は、第2の三島由紀夫事件を引き起こす危険があることを心配しておられた。だから、当「自主憲法制定国民会議(のちに=新しい憲法をつくる国民会議)」には、「現行憲法無効・明治憲法復元」論者をさけるように、との御指示があったのである。
 清原も、それを心配していたが、しかし、救いなのは、椛島氏をはじめとするグループから、これまで、第2の三島由紀夫事件のような事件を紀こした者はいない、ということである。その点は、参謀本部・大本営たる椛島氏はじめとする日本青年協議会がよく統率をとったとみることができる。むしろ、日本青年協議会を攻撃する書籍が出て、その影響力がやや低下して、目本会議に代わろうとする極右勢力が台頭してきているとも見える今日の状況の方が、危険なのかもしれない。
 私どもとしては、椛島氏はじめとする日本青年協議会も、その根底にあると思える「現行憲法無効・明治憲法復元」の旗を降ろし、岸信介元総理の路線「現行憲法を有効として上で、合法的合理的に、第96条の改正手続に従って改正する」手段・方法に、転換してくれることを、今も切にこい願っている次第である。

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